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神戸発祖母ログ


後期高齢者の日々・・・
by namisanID
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8月6日

62年まえの今日、1945年(昭和20年)8月6日、私は9歳の誕生日を、北鮮(現北朝鮮)の阿吾地で迎えました。

いつも遊んでいた近所のマスミちゃん、ミチヨちゃんと母の手作りの五目寿司でお昼を一緒にしました。

いまのように、ケーキなんてありません。まして戦時中のことです。デザートは母が兵隊さんにいただいたとかの羊羹でした。

私の誕生日を祝っていた頃、内地の(私たちは日本のことを内地と言ってました)広島がたいへんなことになっていたことを全く知りませんでした。後に両親より聞いた話だと、新型爆弾が投下されたと報道されたそうです。

その3日後、9日のお昼頃、どこからともなく黒い飛行機が私たちの頭上近くまで飛んできたかと思うとそのまま引っ返していきました。後で思えば、日本の長崎に原爆が投下されていた時分です。10日の未明私たちは、着の身着のままの状態でひっそりと阿吾地を抜け出しました。

日ソ友好条約を破棄して突然、ソ連軍が侵入してきたので、日本軍が追っ払ってくれる間、しばらく山に潜んでいようということでした。黒い飛行機はソ連の偵察機だったのです。

父が勤めていた会社は、戦時中海軍の軍需工場になりました。昭和18年には海軍中将が社長に就任しております。海軍には、正確な大本営発表(陸軍)は入らなかったようです。ソ連参戦は、海軍中将の社長に寝耳に水のできごとだったとのことです。

ほんの2,3日でまた家に戻れると思っていた私たちは、そのままの姿で日本へ帰らねばならなくなってしまいました。

私が住んでいた阿吾地は、満ソ国境に近い北の端にありました。

徒歩で炎天下をとぼとぼと南下して、約ひと月後同系会社が存在していた興南というところへ辿り着き、翌年の元旦、近くの港から闇船で38度線を超えて無事、日本へ帰ってまいりました。

簡単に言えば、これだけのことですが、興南へ辿り着くまでの道中は、ソ連軍の機銃掃射
敗戦後は、ソ連軍の蛮行、婦女陵辱行為等々恐怖の中の逃避行、興南での生活でした。

成人してから、特に母親になってから私は自分の誕生日をことさら祝うようなことをしておりません。そのような気分になれないのです。

子供たちに言ってあります。「お母さんのお誕生日は、原爆記念日という悲しい日になってしまった。だから、今日平和の中で、誕生日を迎えることができるそれだけで有難く幸せなのよ」
by namisanid | 2007-08-06 21:43

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